松本とし子

まつもと 敏こ
日本共産党平塚市議会議員
活動ファイル

元藤沢市長葉山峻さん やすらかに

2010年4月23日

元藤沢市長 葉山峻さんの葬儀が17日、藤沢市民会館で行われたという報道に、また「私の中の時代」が一つ、終わった気がしています。

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葉山峻さんが藤沢市長選挙に出ると聞かされたのは、1971年のこと。私がまだ19歳になったばかりの時でした。

当時藤沢の鵠沼に住んでおられた父の恩師、元社会党衆議院議員の猪俣浩三氏のお宅に今は亡き父と訪ねたときのことでした。

 猪俣浩三氏と父は、先生と生徒というより生涯を誓い合った同志のような関係でした。新潟の田舎で高等小学校の教師をしていた猪俣氏の生徒となった父は、先生の考え方に師事し、猪俣氏が東京に出て弁護士活動をされてからも、ずっと我が家と行き来が続き、猪俣氏の2人の息子さんも夏休みや冬休みになるとよく遊びに来たものでした。

 衆議院議員になられてからも、田舎に呼んでは「国会代議士の猪俣浩三先生がはるばるこの松之山までおいでくださいました!」と田舎の皆さんに集まってもらって紹介していて「代議士」という重みを小さいながら感じていたものです。

 新潟の田舎でも、1959年、今の天皇ご成婚にあわせテレビが各戸へと広がっていきました。そして1960年、あの忌まわしい元社会党委員長 浅沼稲次郎氏の暗殺の場面をテレビの画面で父は見ることとなったのです。

夕方のテレビニュースで知った父は、「あっ!!」というやいなやあちこちに電話をし、翌朝「東京」へと出て行ったことを覚えています。なんだか懐かしくなって、昔話になってしまいましたが・・。

 そんなわけで猪俣氏は、私に「藤沢に住んでいるなら是非、葉山君に入れてくれよ」といわれたのですが、3月生まれの私は、投票日の2月はまだ選挙権がなかったのです。

しかしその後、革新市長を誕生させようという動きが起こり、当時の共産党の方々と懸命に運動したことを思い出します。これが私にとって初めての選挙運動でした。

 私は、その後結婚して住んだのが葉山さんの家のすぐ近くでした。葉山さんの家に右翼といわれる人たちの車が何十台と取り巻いてスピーカーで怒鳴り続けたときは気が気ではなく、電話をしたら葉山さんのお母さんが出られ「夫が受けた警察の拷問のことを思えば、これくらい大丈夫よ。心配してくれてありがとう。それよりあなたたちこそ気をつけて頑張ってくださいね。」と、落ち着いたやさしい声で話されたことを思い出します。

親の代から平和を願い、市民が主役の政治を目指した葉山峻さん、安らかにお休みください。


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