松本とし子

まつもと 敏こ
日本共産党平塚市議会議員
活動ファイル

加藤桝治さんからのエッセイ(7月記)

2014年7月30日

加藤桝治さんからのエッセイは久しぶりになります。加藤さんの過去の記事を読むには、このホームページの左にある「サイト内検索」で「加藤桝治」と入れていただきますと出てきます。

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日本初空襲とその後

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加藤 桝治

再び、アメリカ軍による日本本土初空襲のことを書きます。この空襲の最大の被害者が、中国の民衆だったということを知ったからです。

空襲があったのは、1942(昭和17)年4月18日でした。その一機が当日、平塚の上空を低空で通過しました。この日は、大磯の高麗神社の春の例祭で祭り見物で集まった人々の頭上をかすめるように飛び去ったということは、今でも語り継がれています。 

この日の空襲は、前年の12月8日に日本海軍がハワイの真珠湾を奇襲して、米海軍に大損害を与えたことに対する報復として、ルーズベルト大統領の要望により計画された一大作戦で、陸軍の中型爆撃機ノース・アメリカンB25を滑走距離の短い空母から発進させるという常識はずれの戦法で、16機を載せ出動、京浜地帯を主目標とし、3機は、名古屋・神戸方面を空襲したのです。隊長は曲技飛行で著名なドーリトル中佐でした。

私は、当時、川崎の横山工業㏍の養成工として働いていました。昼食休憩を終わって仕事についた時、別棟の倉庫に直撃、爆風で15人以上の死者と怪我人多数を出しました。死亡した大半が私と同期の16~7歳の少年工でした。工場内は大変な騒ぎになりました。地獄絵のようでした。

家に帰るとき、会社の幹部から「軍からの指示だから」と云って、「今日のことは親兄弟にも言うな」と厳しく指示されました。

この日の空襲で横山工業以外、日本鋼管、富士電機、昭和電工などが爆撃され被害を受けましたが、翌日の新聞では全く触れず、「わが猛撃に敵機逃亡、軍防空部隊の士気旺盛」、1機も撃墜できなかったのに、「たちまち敵機9機を撃墜―東部軍管区発表―」「被害は極めて僅少」と報じました。

国民の目、耳、口をふさいで、真実を知らせない、これが戦争です。

米軍機は、1機はソ連領に、他の15機は中国各地に不時着し、乗員の大半は中国民衆の協力で帰国しました。最近、友人から、キャロル・Ⅴ・グラインズ著『東京初空襲』(彩流社)を借り、日本軍の報復作戦を知りました。

中国国民党軍からアメリカ政府へ次の打電をしています。「アメリカが東京を爆撃したため、何も知らない中国人が日本軍に捕まった。それから日本の大部隊が、米軍機の搭乗員が着地した沿岸地帯に猛攻撃を加え、男、女を問わず、小児まで虐殺している…」。

また、国民党空軍顧問役・クレール・センノート将軍のメモには、「…空襲部隊の搭乗員が通過した部落は一つ残らず焼き打ちされ、村人は小児に至るまで皆殺しにされた。日本軍が爆撃した爆弾の後を埋め戻したというだけで一つの町が破壊された。この3ヶ月に及ぶ掃討作戦で25万人の中国兵と、一般庶民が殺戮された」。とあります。

戦争は恐ろしいものです。戦後69年勝ち取ってきた平和を絶対に守り続けなくては。 

 (2014年7月記) 


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