松本とし子

まつもと 敏こ
日本共産党平塚市議会議員
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加藤桝治さんからのエッセイ

2015年9月12日

加藤桝治さんから寄せられたエッセイをご紹介します。今だからこそ伝えたい、いまこそ知ってほしいとの願いが・・。

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「市民が探る平塚空襲」   発行に寄せて

加藤 桝治

 「近所に私の遊び仲間のマー坊という一級上の人がいたんですが、その子が死んだと聞かされました。この人には因縁がありまして、空襲の前の日に彼とメンコをして、メンコといっても丸いメンコ、市販のではありませんで、新聞紙を折りたたんでメンコにしたものです。いつもは私が負けるのに私が勝って彼からメンコをまきあげ、彼がものすごく悔しがりまして『今に見ていろ』とわめいていました。それでその晩彼は亡くなってしまって。

 後から聞いたことですが、彼のお母さんは、赤ん坊を背中にしょって、彼マー坊を右手に、左手にマー坊の妹、私と同級だった女の子を連れてです。これらを連れて川原に逃げた。そこに焼夷弾が降ってきて、母親と女の子の二人は即死、母親の背中の子どもは助かり、マー坊は片足を吹き飛んで応急手当ての甲斐もなく出血多量で明け方に死んだと聞かされました」。(田中宏・当時7歳 千石河岸)

これは、「平塚の空襲と戦災を記録する会」=江藤巌会長(以下『記録する会』とします)がこのほど発行した「市民が探る平塚空襲 通史編Ⅰ 平塚空襲の実相」(以下『通史編』とします)から引用したものです。

平塚空襲は1945年7月16日深夜から約100分間で約40万本の焼夷弾が投下され、328人以上が亡くなり、旧市内の8割が焼失しました。

『記録する会』は、1989年(平成元年)平塚市博物館の教育普及事業の一環として発足し、平塚空襲体験者からの証言の聞き取り、それを記録することを活動内容として、発足後27年になる今日まで、空襲体験者への聞き取りを重ねてきました。現在まで証言された方は250人といわれます。

1998年(平成10年)にそれまでの証言を「市民が探る平塚空襲 証言編」として発行。その後も「炎の証言」としてまとめ、2014年5月までに16号を発行しております。

こんど発行された『通史編』は、平塚空襲の実像を浮き彫りにするため、いままでのすべての証言を対象に米軍の空襲の実態、被害や避難状況、消火活動の様子などを、地域別に証言を整理。さらに、家族の再会や死別、目撃した遺体、生活苦、心身の傷跡、空襲下の医療などの項目でまとめたものです。また、これまでの証言から、焼失家屋や死者、焼夷弾の落下を確認した場所が平塚を中心に広範囲に及んでいることを示した「投弾範囲図」も掲載しています。

私も『記録する会』の会員の一人として通史編の作成に参加してきましたが、どのページを開いてみても、「空襲のすさまじさ」「戦争の悲惨さ」が伝わってきます。戦後70年私たちは、平和を守ってきました。

生きている者の責任として戦争への道は絶対に許してはなりません。

『通史編』A4判280㌻400円、問合せ平塚市博物館(0463・33・5111)     


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